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摂取不捨

讃岐の庄松がある寺に泊まっていたとき、住職が「摂取不捨という
言葉があるが、あれはどういうこころじゃ」と尋ねましたら、庄松は
いきなり立ち上がり、「それはこういうことじゃ」とさけぶと、両手
をひろげて、住職につかみかかろうとしました。
びっくりした住職は、あまりむつかしいことをたずねたので、庄松が
のぼせたと思い、その場を逃げ出しました。しかし庄松は両手をひろげた
まま、その後を追いかけます。本堂から、後堂へ、後堂から庫裡へ、逃げても
逃げても、庄松が追っかけてくるので、いよいよ気味が悪くなって、とうとう
一番奥の行灯部屋へ逃げ込み,戸を閉めて隠れていました。ところが、あとを
追ってきた庄松がそれに気ずき、戸を引きあけるなり、部屋一杯になるほど
両手をひろげると、逃げ場を失って、小さくなっている住職に、
「もう逃げ場はないぞ。摂取不捨とはこれなり」といいました。
そのときはじめて住職は、逃げて、逃げて、逃げまくる私を、ついに追い詰め
逃がしたまわぬのが「摂取して捨てず」とおおせられたことかと気ずいて、
大いに喜び,庄松にあつくお礼をいったということです。

阿弥陀様が逃げる私を追いかけて助けて下された。助けてくださる阿弥陀様
が手を下げて、任せてくれよのおおせだったな。
有難いな。
今日も南無阿弥陀仏と称えさせていただける身の幸を慶んでいます。
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念仏者の生き方

法然上人は念仏者は煩悩を主とし、念仏を客人とする・・・ような生き方をしてはならない。
念仏をば心の主とし、煩悩をば心の客人として生きよ・・・といわれていました。

煩悩の現実を離れることのできない凡夫だからこそ、わが心にまかせることなく、つねに
如来を、念仏を心の主として、如来に導かれるように心がける生き方をしなければならない
といわれます。

阿弥陀如来の本願を聞き、煩悩を超えた涅槃の浄土に向かって歩んでいくのだという生きる
方向性を与えられていることの有難さを思うとき、少しでも、如来の御心にかなうような
生き方をしなければならないという思いが湧いてきます。・・・・・本願のこころより・・

どうせ煩悩具足の身であるからと、してはならないことも思いのままに行い
言ってはならないことも思いのままにいい、心に思ってもいけないことを平気で
思い、自分の心のままに振舞うようなことは慎まねばなりません。
毎日心してゆかねばならぬことだと思います。
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